大溝祭について

近江における近世の祭礼で注目すべきものに、曳山(引山)祭りがあります。贅をつくした山飾りや子供歌舞伎・人形からくりなどの趣向をもつ華麗な祭り です。それは、近江一国にかなり広く分布しており、たとえば、4月15日の長浜曳山祭(子供歌舞伎)、4月20日の水口祭(人形)、5月3日の日野祭 (人形)、5月9日の米原曳山祭(子供歌舞伎)、10月10日の大津祭(人形からくり)などが、よく知られています。これら曳山祭りは、いずれも城下町など の近世都市で創出されたものであり、その華麗な祭礼文化は、地方都市の経済的発展によって向上した町人の経済的実力を示すものであったといえます。いねば 曳山祭りは、近江の都市文化の華でした。

ここ湖西、高島でも、分部氏の城下町大溝(おおみぞ)に曳山祭りが伝えられています。以下、その大溝祭をとりあげ、近世大溝町人の文化活動の一端を紹介します。

大溝祭は、城下町大溝の鎮守、日吉神社(山王社、祭神・大山咋命)の初夏の例祭であり、五基の曳山(宝・竜・湊・勇・巴)が出されて祭礼を彩って います。ちなみに、日吉神社は、石垣村の鎮守社であったものを、同地に城下町大溝を形成するにあたって大溝町の鎮守としたものです。さて、現在は、5月3目宵宮(曳き初め)、4日本祭となっていますが、昭和35年(1960)までは、曳き初めが5月4日、宵宮7日、本祭は8日であったといい、江戸時代は4 月1目(旧暦)が本祭でした。

さて、宵宮は元火受けに始まります。日吉神社から宵宮曳きの曳山につるす30余の提燈の元火をいただく神事です。もちろん現在は、電球を使っていますから形式的なものです。一方、神社では湯立ての神事が執行され、二百燈献上などの神事もおこなわれます。そして、元火受けが済むと曳き初めとなり、町内を曳 山が巡行することになります。本祭は中老が中心となりますが、この宵宮は、若衆がすべてを取りしきる若衆の祭りです。宵宮が終わると、「嫁入りの太鼓たたき」などといって 曳山町では新婚や新築の家々を若衆が訪問し、深更にいたるまで、囃子の太鼓をたたいて振る舞いをうける行事が今も残っています。

明けて本祭になると、朝、曳山は町々の山蔵を出発して惣門前に勢揃いし噺子を競い合います。やがて神社から迎えが到着すると、その使いに従って桜の馬場まで曳行します。このとき、宵宮では「上山(階上)」に乗っていた囃子方は、「下山(階下)」の胴幕内に降り、「上山」中央には御幣が飾られます。なお、 現在は人形飾りなどはなく、「上山」はこの御幣のみとなっています。そして、曳山が馬場に到着すると、神輿が拝殿から長い石段を昇き降ろされ、渡御のはこびとなります。神幸の次第は、露払い・剣鉾・傘鉾・太鼓・神輿の順であり、そのあとに曳山が従います。神輿は勝野の御旅所へ巡行し、神事ののち町内を巡行して還幸します。本来、曳山はこの神幸につき従っていたのですが、現在では、国道161号線の交通事情等により、神輿などはトラックで巡行、曳山は神社で曳き別れて各町内へ向かうこととなっています。このとき、「下山」にあった囃子方は「上山」に登り、にぎやかに囃し立てて各町内へと曳行されるのです。

なお、囃子については、鉦・太鼓・笛の三種を用いていますが、町内ごとに10種余の曲があり、囃子を競い合った跡がうかがえます。ちなみに、囃子は曳行の場所によって変わり、たとえば巴組では、町内をまわるときは「祇園ばやし」、神社の近くへ来ると「大黒舞」、神社への坂を上るときは「上り馬場」、下 るときは「下り馬場」というふうでありました。

翌六日は、祭りのあと片付けをしますが、かっては後宴と称して「天頑山」で直会があり、これをもってすべての行事の終了としたのです。

さて、曳山の巡行は、年ごとにその順番が定められており、先頭を「花山」といい、以下、二番山・三番山・四番山・五番山と称しています。「花山」の 名称は、江戸時代の記録では安政5年(1858)の祭礼のときに見えるのが最も早いもののようであり、幕末ころから一番山をこう呼んだものとみられます。そ れはともかく、現行では「花山」の翌年は二番山となり、五番山が「花山」となるというように年ごとに順番をずらせていくことになっています。この巡行方式は 安政ごろの記録にもみえます。

また、五番山は「渡し番」と称して、神輿の世話番をつとめています。「渡し番」という名称は、文化6年ころから記録にあらわれてきますが、それ以前は「御輿番」と称し、一方、それ以外の山組を「山番」と称していました。

なお、大溝祭の詳しい資料が “滋賀県選択無形民俗文化財「大溝祭」” のサイトにありますので、参考にしていただければ幸いです。