大溝について

現在の行政区画的には、「滋賀県高島市勝野」と表記されているエリアが「大溝(おおみぞ)」とも呼ばれています(実際には、大溝は勝野より少し狭いエリアです)。

「高島」や「勝野」という地名は、万葉集に

何処にか われは宿やむ 高島の
勝野の原に この日暮れなば

と詠まれている通り歴史のある地名です。

一方、「大溝」という地名が使われだした年代については詳しいことが分かっていませんが、戦国時代に織田信長が、この地に「大溝城」を造らせたことから、西暦1500年頃には「大溝」の地名が使われていたものと思われます。

天正6年(1578)に築城された大溝城は、その約20年ほど後に天守が解体され、現在は天守の石積みだけが残っています。

その後、江戸時代に入って元和5年(1619)8月に伊勢国安濃郡(三重県)から分部光信が入封しました。光信は天守を再建せず「陣屋」で政治を行い、以後幕末まで大溝城主は分部氏が勤めました。

大溝の町は、軍事面・生活面・防災面を考えた「まち割水路」や、山から引いた水を各住居に引き込む「古式水道」、さらには「下水道システム」などが、大溝城築城頃から江戸初期にかけて整備されました。 こうした「まちづくり」は、当時としては先進的なものでしたが、特筆すべき点は、これらが現代でも暮らしの中で実際に使われていることです。

また、分部藩は2万石であったことから、大溝城下は比較的コンパクトに形成されています。結果として、比較的狭いエリアに城下町として必要な機能の全てが揃っており、戦国期に築城された大溝城の遺跡を含めて、大溝城下に残る遺跡や町並みを90分程度のまち歩きで見て回れるのが特徴です。

また、大溝城の自然の堀として使われた乙女ヶ池周辺では、今から千数百年前に壬申の乱、惠美押勝の乱の終焉の地となっています。これら二つの乱に、藤原広嗣の乱を加えて古代日本の三大クーデターといわれていますが、その内二つの戦場が大溝周辺であったことは興味深いものがあります。